2016.12.06
ただ日本人ってだけで価値がある
こんばんは!
今はベトナムのハノイにいる林です!
ハノイには会社の仕事で来ています。
ちょうど2週間前もインドのムンバイにいました。
内定者でさえも、望めばチャンスをくれるのがこの会社の素敵なところでもあります。
インドに行き、日本に帰って来て、現在ベトナムにいるわけですが、現地の大学生とお話をしていて、ふと感じたことがありました。
「俺、日本人であることをいつまでも誇っていたいな」
ご先祖様が築き上げてきた日本という国。
最悪、働かなくても「生きる」ことを保証されている我々の国。
そこで生まれた「日本人」として、世界で堂々と胸を張って生きていきたい。
このような熱い想いが込み上げてきました。
そこにはある種の「危機感」を覚えたからです。
それは何か。
保証されているが故に、「生きる」ということにハングリー精神がない。
新たな世界を見に行こう。
新たな道を開拓して行こう。
人生を豊かにしてやろう。
自分の人生をもっとド派手にしてやろう。
今まで築きあげてきたものに頼って、現状維持に走り出している人が多いんじゃないかなと僕は勝手に思っています。
それが顕著に現れているのは、日本の大企業志向。
決して悪いと否定しているわけではありません。
ただ、インド、ベトナムの学生と話していて、いつか日本人が彼らにこき使われてしまう時がきてもおかしくないほどに日本人の学生は学びという点に関して、どうしても貪欲さに欠けると感じました。
「生きる」ということは「たくさんのことを学ぶ」という側面を兼ね備えていると僕は思います。
「学ぶ」ことによって、1つの事象に対し様々な面で考えることができ、深さが増します。
深さが増すことにより、他の学びとのある共通点を見出し、また新たな学びを生み出すことができる。
学生たちは言いました。
「日本は技術が発展している!」
「日本はとても勤勉だ!」
「熱心だし、丁寧だし、何よりも頭が良い!」
人としての価値があるから彼らよりもそれなりの給料が保証されているのかもしれません。
ベースが勝手に用意されているのです。
そのベースを活かすか、それとも殺すか。
「井の中の蛙、大海を知らず」
大海を知ったら、その選択は1つしかないことに気づくのではないだろうか。
今はベトナムのハノイにいる林です!
ハノイには会社の仕事で来ています。
ちょうど2週間前もインドのムンバイにいました。
内定者でさえも、望めばチャンスをくれるのがこの会社の素敵なところでもあります。
インドに行き、日本に帰って来て、現在ベトナムにいるわけですが、現地の大学生とお話をしていて、ふと感じたことがありました。
「俺、日本人であることをいつまでも誇っていたいな」
ご先祖様が築き上げてきた日本という国。
最悪、働かなくても「生きる」ことを保証されている我々の国。
そこで生まれた「日本人」として、世界で堂々と胸を張って生きていきたい。
このような熱い想いが込み上げてきました。
そこにはある種の「危機感」を覚えたからです。
それは何か。
保証されているが故に、「生きる」ということにハングリー精神がない。
新たな世界を見に行こう。
新たな道を開拓して行こう。
人生を豊かにしてやろう。
自分の人生をもっとド派手にしてやろう。
今まで築きあげてきたものに頼って、現状維持に走り出している人が多いんじゃないかなと僕は勝手に思っています。
それが顕著に現れているのは、日本の大企業志向。
決して悪いと否定しているわけではありません。
ただ、インド、ベトナムの学生と話していて、いつか日本人が彼らにこき使われてしまう時がきてもおかしくないほどに日本人の学生は学びという点に関して、どうしても貪欲さに欠けると感じました。
「生きる」ということは「たくさんのことを学ぶ」という側面を兼ね備えていると僕は思います。
「学ぶ」ことによって、1つの事象に対し様々な面で考えることができ、深さが増します。
深さが増すことにより、他の学びとのある共通点を見出し、また新たな学びを生み出すことができる。
学生たちは言いました。
「日本は技術が発展している!」
「日本はとても勤勉だ!」
「熱心だし、丁寧だし、何よりも頭が良い!」
人としての価値があるから彼らよりもそれなりの給料が保証されているのかもしれません。
ベースが勝手に用意されているのです。
そのベースを活かすか、それとも殺すか。
「井の中の蛙、大海を知らず」
大海を知ったら、その選択は1つしかないことに気づくのではないだろうか。
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